黒沢隆という建築家との出会い

黒沢隆という建築家に出会っていなければ今のぼくはないのかもしれない。20歳の時だ。1973年日本大学理工学部建築学科の2年生だった。建築計画系の設計製図の授業で初めて出会った。東孝光・宮脇檀と並ぶ作家的な建築家として建築雑誌を賑やかせていた。

最初の授業で黒沢先生は演壇の机の上に腰掛け学生に向かってニコッと笑った。その笑顔が今でも忘れられない。そのとき持っていたスケッチブックはぼくが持っていたものと同じ、月光荘のウステンだった。急に親近感を覚え、建築がとても楽しくなってきたのを覚えている。

基本中の基本ともいえる住宅の設計が課題に出された。何回も黒沢先生に質問して製図も頑張ったつもりだ。講評ではなんと100点をつけていただいた。後で聞けばぼくが最初で最後の100点だったらしい。L型のとても住みやすそうなプランができた。

 

ラッキーだったのは当時恵比寿の文化アパートにアトリエを構えていた黒沢隆研究室(当時はDSAという名称だった)に遊びに来るよう言われたことだった。ぼくは近くの渋谷に住んでいたので毎日のように通っていた。そのあともっとラッキーなことが起こった。若干20歳の自分に住宅の設計依頼が舞い込んだのだ。ぼくの従姉家族が大磯に建てるという話だった。図面の描き方からどのように仕事を進めてよいのかさえ分からなかった若ぞうを助けていただいたのが黒沢先生だったのだ。

大磯の家

プランやエレベーションのスケッチの仕方や実施図面、確認申請、見積もりの依頼、現場での対応・・・黒沢先生の後押しがなければ対応できなかったかもしれない。工務店は鎌倉の横溝工務店の横溝喜一さん、大工は森十五郎さんをつけていただいた。いままで黒沢先生の設計を支えてきた工務店でもあるし、名士の住宅をたくさん手がけてきた工務店でもあった。無事竣工し、住宅建築という雑誌にも掲載していただいた。当時の若い編集者が後に編集長になる植久哲夫さん、写真は輿水進さんだった。

写真は輿水進さんに撮っていただいた。大磯の家の外観のコンタクトシート。

写真は輿水進さんに撮っていただいた。大磯の家の外観のコンタクトシート。

 

黒沢先生とぼくは同じ干支だった。ぼくが20歳のとき先生は32歳だったのである。個室群住居論、吉田五十八論、数寄屋に関する考察、近代という歴史観など数々の建築論を発表していった。建築は数をつくるのでなく寡作だが質的にすぐれた作品が多かった。流行に走るようなデザインではなく知的で何気ないけれど奥の深いデザインソースで構築されたものだった。

 

2014年3月15日に亡くなられた。72歳だった。もっと聞きたいことがたくさんあったのにとても心残りなのが悔しい。